思い出
初恋の女の子のことをドランクに聞いたスツルム殿は……
小さい時、ちょっと遠いとこに旅行に行ったの。でも挨拶とか、お行儀よくしてないと駄目なのがつまんなくて逃げ出しちゃったんだよねえ。
こっそり抜け出してきたのはよかったんだけど森で迷っちゃって〜そんなときにドラフの女の子が助けてくれたんだ。遊ぼうって誘ってくれたから日が落ちるまで一緒にいたの。こんな森の中でなにして遊ぶのかなって思ったら川に入ったり木登りとかだったからびっくりしたんだよね〜。初めてのことばっかり。
木登り、したことなかったの。だから怖くってだけど頑張って登ってそこからみた夕焼けがすごく綺麗だったなあ……でもそれよりも隣の女の子の横顔と真っ赤な髪がきらめいててそれがとっても。
重い体躯を横たえているスツルムの隣、寝台上でドランクが無意味に話し始めるのは習慣のようなものだった。大抵、寝入るつもりのスツルムの耳へ届く内容は右から左に通り抜けていき消えるのを知りながらである。
今日だって聞き流すつもりだったが、いつも以上に長々と垂れ流していて、その騒々しさに目が冴えてしまった。
「初恋だったの〜すいすい木の上に登っていくとことかカッコよくてえ、でもちょっと口端を持ち上げて小さく笑うのは可愛いくてすごく好きになっちゃったんだよね〜」
ほんの数分前まで可愛い、好きだとと繰り返した唇から同じ言葉が放たれている。返事の代わりに舌打ちが散った。ひどく耳障りだ。だが思い出に浸るドランクはスツルムの様子に気づく気配はない。苛々している自身に余計、腹が立つ。
別に過去の女なんてどうでもいい。
だが先ほどまで散々面倒なことに付き合わせて好き勝手したくせにその後でこんな話を聞かせるなんて無神経じゃないか。
「——だったんだよね? ねえ、スツルム殿? ねえってば〜もお、僕の話、聞いてる?」
身を寄せて、背中から巻き付いてくる腕を鬱陶しげに一瞥する。いつも勝手に話して満足しているくせにどうして今日に限ってスツルムの反応を求めるのだろうか。
繰り返し名前を唇に乗せるドランクに辟易とする。引き剥がすつもりだったが太い腕の檻は強固で嘆息だけが逃げていく。
「……煩い」
「そんなに冷たいこと言わないでよ〜さっきまで僕たちあ〜んなに仲良くしてたじゃない〜」
囁く唇が耳元をかすめた。それは最中、スツルムを籠絡させた声色に似ていて、奥歯が軋む。そのまま押し付けられる熱がゆっくりと下へ降りていく。しかし体温を上げるドランクに比例してスツルムの心中は冷ややかで、相手をする気にならない。無遠慮に腿に沈む指先を握り潰すと悲鳴が鼓膜に突き刺さる。
「痛い! 痛い! スツルム殿、折れちゃうよ〜!」
「べたべたしつこい……! さっきしただろ」
「だってえ、そんな気分になっちゃったんだもん。もうちょっと付き合ってよぉ、スツルム殿〜」
ドランクは見下ろすように体勢を変えた。スツルムを覆うように影が落ちる。長い指が髪を解く。角に触れたかも分からないささやかな口づけ。大事なものに愛撫するようなその仕草が今は癪に触った。
「……やめろ」
胸元に埋められる頭を押し退けると金色の瞳が不思議そうに細められる。
「ええ〜スツルム殿ったらなんだかご機嫌ナナメ? お腹すいたの?」
大きな手が平たい腹を撫でた。睨め付ける。効いている気がしない。
「体調悪い? 眠たいの? お風呂先に入りたかった?」
諦め悪く羅列していく理由に当てはまるわけがなくて、しかし不意にドランクは口を噤んだ。
「あ」
喜色がスツルムの眼前に広がる顔を飾った。
「ヤキモチ? ヤキモチだよね〜! もお! スツルム殿っ、可愛いんだからあ〜」
「は!? おまえ、何言って……!」
「勘違いするなんて、聞いてなかったんでしょ〜僕の初恋はスツルム殿だって言ってたのにぃ〜」
頬をつつく指を払っても、へらへらした顔は崩せない。身じろくと抱きすくめられる。移る体温はひどく熱い。
「こないだスツルム殿のお家に行ったときに思い出したんだよねえ〜あの辺だったなあって〜、スツルム殿は覚えてない?」
「……覚えてない」
「そんなあ……まあスツルム殿が覚えてなくても僕がちゃあんと覚えてるからいいんだけど〜!」
記憶の端、に引っ掛からなかったわけではないけれどそれを素直にこのエルーンへ告げる気にはならなかった。馬鹿みたいに騒ぐに決まっている。それで済みそうにないから困るのだ。すでに熱っぽい視線が痛い。悪戯じみていた指先は、いつの間にか頬から耳に添えられていた。
失せてしまった苛立ちは、拒む理由を奪う。スツルム殿。名前を呼ぶ声色を無視できない。
近づいてくる瞳から逃げることも躊躇われて、ついに瞼を下してしまった。
2022年7月14日