心音

心音

 

スツルム殿の心臓の音を盗み聞きしているドランクの話


 耳を揺らす。彼女の方向へと。その唇が言葉を吐き出していなくても、ドランクのそれは癖のようで、習慣でもあった。 
 エルーンの聴覚は他の種族よりずっと優っている。遠くの声が聞こえるだけではなく、心臓の鼓動くらいなら、傍にいれば耳に届くくらいには。
 スツルムのその音はいつだって心地よかった。隣を歩めばかならず聞こえて来る心音は規則正しい。途切れなく届く音は長年聴き続けていたから、彼女の気分だとか感情を何となく察することができた。別段心が読めるわけではないので彼女との軋轢を減らすために利用するくらい些細なことだ。スツルムに伝えていない程度には後ろめたさはあるが聞けないことの方が嫌だった。
 だってドランクが隣にいる時に聞こえる音がずっと穏やかで心底、彼女に信頼されているのを知っている。その心音はドランクの傍にいる時が一番、静かで凪いでいて、それが堪らなく嬉しかったのだ。彼女にとってドランクは安心できる場所であると示されていて、それはずっと変わらないはずだと思っていた。
しかし、今、隣にいる彼女から響く音は何処か違和感があった。
「スツルム殿〜、ここ、一部屋しかないみたいんなんだけど大丈夫〜?」
「……ああ、構わない」
そう口にした彼女の心音に混じり合う不純物のような軋みが響く。きっと言葉通りではないのだ。
部屋に入る彼女の後ろ姿を追いながらため息をこっそりこぼす。
原因を自覚できないほど愚かではない。
 昨日のことだ。食事の後に向かった二軒目の店で他愛のない話をドランクが半ば一方的に話しながらスツルムは酒を傾けていた時だった。きっと何か面白かったわけではない。ふと緩む口元。意識することない思わず溢れた自然な笑みだ。
スツルムはあまり笑わない。だから時折見せてくれるそれは貴重で本当に彼女が大事にしている相手にしか零さないことを知っているから全幅の信頼の証だった。
普段なら四葉を見つけたような良いものをひとつ手に入れた心地よさを覚えるだけなのだけどその日はどうしてだか見惚れてしまった。
気づけば存外に彼女の顔が近くにあった。どうしてこんなにも傍にあるのだろうと思って、首を傾げ炎のように赤い瞳をぼんやりと見る。綺麗だ。知っている。いま、その色に自分の瞳が映り込まなかっただろうか。
 唇に残る柔らかな感触に疑問は一瞬で氷解した。
眼前で徐々に染まる色が綺麗で同時に自身の頬も熱を帯びていくのがわかる。視線が交わっていたのは数秒に満たなかっただろう。グラスの氷が溶ける音に我に返った。スツルムは何も言わなかったし何もドランクは言えなかった。
会計、と言いながら立ち上がるスツルムの後を追う。その夜は宿に着くまで無言だった。あとは必要事項だけで会話は終わってしまう。次の日からいつも通りだった。いつも通りに見えた。
 だがドランクにはわかってしまう。それは表面上だけでしかないと彼女の内心を嫌でも突きつけられる。
 音が変わってしまった。
触れるほど近くとも彼女はドランクの隣に安心しきっていたのに今は違う。これはきっと警戒だ。相棒にまで手を出す節操のない男だと思われた。元々スツルムには遊び歩いているだとか誤解されているけど日頃、女の子たちに愛想良く振りまいているのは仕事を円滑に進めるためでもあるし、一線は超えてない。あれはもう必要のないものだとわかったからスツルムと出会ってからは健全に生きていたのに。
 今日一日もドランクが傍に寄るだけでスツルムの心音は乱れてそれを耳にしてしまう度に後悔する。あんな一瞬の誘惑に負けて今まで積み上げてきた信頼をふいにしてしまったのだ。彼女はそれを大事にしているから一度失ってしまえばもう戻らないかもしれない。そう諦念を感じながらも未練がましく何気ないふりをしていつもみたいに剣を磨く彼女の隣に座って、他愛もない話をする。微かに唇は震える。駄目だ。嫌な音。ずっとずっとずっと。こんな音だったら聞こえなければいいのに。近づくなと言われているようで苦しい。
 不意に隣り合った腕が軽く触れた。
彼女の心臓が一際大きく跳ねる。
声が途切れる。何を話していたかわからなくなった。何か、何か話さなければならない。沈黙が怖い。
これ以上嫌われたら。
「あ……ご、ごめんね、スツルム殿、邪魔しちゃったよね〜?」
返答は無言だ。
絶望的な気分になったドランクはけれど弾かれたように上がった面に数度、瞳を瞬いた。
音ばかり気にしていて彼女の顔を真っ向から見たのはひどく久しいように思えた。
頬が赤い。睨めつけるような双眸は怒っている。のではなくて、これは羞恥に近い。音だけじゃなくて表情もずっと見てきたから知っている。
ならばこのずっと響く心音はドランクを警戒しているのではなくて、もっと別の何かだ。
 確証が欲しい。そう思った。瞬間、彼女が剣を落とす。思わず一瞥したそれはもう磨く必要がないくらい整えられていて、慌てたようにスツルムが手に取り何でもないようにまた手入れを始めものだからまたその唇に口づけしたくなった。


2022年7月14日