気づいていないわけがない
幼いころを思い出し寝不足になって遊びに出るようになったドランクの話
彼女から家族の話を聞いて久しぶりに昔を思い出してしまったせいだろうか。ドランクは最近、若い頃、苛まれていた悪夢をよく見る。
あれからもぽつぽつと話してくれたスツルムとは比べることすら烏滸がましいほど、あれは家族ともいえない別の何かで必死に記憶の底に沈めていたはずなのに着実に現実を侵食し始め、心身に影響を与えてくる。眠りを奪われた体がじわりと疲弊していくのは真綿で首をゆっくりと締め殺されていくようだ。もうとっくに諦めて捨てたのに、今更、引き摺り込まれるなんていつまであんなものに付き纏われなければならないのだろうか。
その夢にはもう覚えているのをやめたはずの両親がいる。場面が次々と変わる中、頻繁に食事風景が流れていく。最も苦痛な時間だったからだろうか。今でもあの情景が蘇るだけで胃がひっくり返るような気分の悪さを覚え吐き気がする。スツルムと取る温かな食事とは似ても似つかない。わかりにくいけど口元をすこしだけ緩めてとても美味しそうに食べる彼女。それだけ。それだけでいい。それすらなかったから。いつも同じ。三人には広すぎる卓上に料理が並ぶ。毎日毎日一抹も変わらない。変わるのはその料理の中身だけだった。
会話はおろか、食器の音すら響かない食卓はいつだって緊迫していてあまりにも無機質だった。誤って一音も発すれば、ドランクには冷たい一瞥が与えられる。叱るという行為すらしない。それが間違っているのがわかっているはずだ、とまるで当然のように視線だけで知らしめられる。かならず卓上には三人揃っているはずなのにいつだって孤独だった。父はドランクを嫌っているのでない。それすらない。ただ興味がない。妻にも息子にも。能面のような顔。気味が悪い。ドランクもそれに倣う。倣わなければならない。どうして。そうしなければ見てもらえないから。そうしたって見てもらえないじゃないか。
ああ、息苦しい。喉が詰まる感覚にいつも飛び起きる。必死で欲した酸素を吸い込み、荒い息を急いで整える。心音が早い。
全身に纏わりつく汗がひどく気持ち悪かった。
こうやって真夜中に目が覚めるのは何度目だろうか。それからいつも眠れず、明日も睡眠不足に間違いはない。毎日、気分は悪化し続けている。何事もないかのように取り繕うには慣れているがこのまま繰り返せば日常にも支障が出るだろう。すでに体調が崩れたままの傭兵仕事はきつい。
隣の寝台には長い間、連れ添った大事な相棒が静かに眠っている。ドランクのせいで彼女が傷ついたら。
スツルム殿。唇の中で呟く。噛み締める。
「じゃあ僕、出かけてくるけど帰らないかもしれないしスツルム殿は先に寝ててね〜」
「……言われなくても勝手に寝る」
剣を研いでいる彼女は部屋を出て行くドランクを見ることもない。どうでもいいのだろう。考えるまもなくわかることをドランクは理解したくない。
三日に一回程度、夜の街に出る。煌びやかな光は目を眩ませ、かりそめでも安堵をくれたおかげで何とか今までの生活が取り戻せた。スツルムの隣いるだけで毎日が楽しくて充実していてもう必要がなくなったから、めっきりそういった行いを控えていたけれど女の子と遊ぶのは嫌いじゃなかったし、柔らかい体を抱いた後はようやく眠れたから、そうするのが一番良かったのだ。一夜だけでも寂しさを埋めたい子はいくらでもいて、ドランクが本気じゃないのもわかっているから利用されて利用した。
どんなことをしてでも仕事で失態を晒すのだけは避けたかった。これまで積み上げてきた彼女の信頼を損ねればたったひとつの大事な場所すら失ってしまう。
ほんのすこしの罪悪感が何か気づいているけれど彼女との間には何もない。否、本当に何もないと改めて思い知らされた。
ドランクが若い時のように夜、出て行くようになったところでスツルムは変わらない。初めは物珍しげな視線が一瞬、通り過ぎたがそのあとはいつも通りだ。わかっていたはずでそんな権利もないのに胸が軋んでいる。その度に隣に在るだけで充分だと言い聞かせる。騙すのは上手だ。例えばそれが自分自身であっても、そう思い込んでいれば本当だ。
だからある夜、腕を掴んで引き止められたことにすこし驚く。それを表に出さないよう、微笑を模って振り返る。
「なあに、スツルム殿〜?」
「…………ドランク、おまえ、今日も出かけるのか」
「え、うん、そうだけど……、あ、何か話しておくこととかあった? 明日の依頼のこととか……」
何か言いたげに開かれた唇が躊躇ったように閉ざされる。数度繰り返し彼女はようやく音を発した。
「……おまえ、最近、恋人でもできたのか、だったら」
「え! い、いないよ、そうじゃなくて……!」
血の気が引いた。彼女の勘違いは、ドランクにとっては危うい物だった。コンビを解散しよう、とは言われないだろう。だが優しいスツルムは相手を慮って距離を取ろうくらいは簡単に口にして実際その通りになる。ドランクはそれを言葉にされると思うだけでぞっとした。彼女の誰よりもいちばん、近くにいたい。隙間をあけてしまえばそこを奪われてしまうことをドランクは何よりも恐れていた。嫌だ。離れたく無い。最悪の想像に至る脳を必死で宥めつけて慌てた声を吐き出す。
「えっと、最近、その夢見がひどくて眠れないし、……誰かが隣にいると眠れるというか……ほんと、誰でもよくって……」
特定は相手がいなくて、とっかえひっかえしている現状を告げて、すぐに悔いた。彼女の顔が明らかに険しくなったのである。家族に愛されて育っているのを聞いているから純真で、その彼女の両親だって誠実な人柄に違いない。
体だけの関係なんてスツルムには遠い世界の話だろう。
「あの、だから恋人とかそういうのは……」
「…………なら代わり、してやるから、夜、出て行くのやめろ」
「え…………」
耳を疑った。
もしかして、隣で添い寝しているだけとでも思っているのだろうか。いや、そんなまさか。いくらスツルムでもいい年なのだからそこまで純粋であるはずがない。小さな体を見下ろして、思わず抱いた感情を恥じる。想像してしまったことがある。罪悪感と高揚感、どちらも感じた。
「………あたしじゃ不服か?」
「そ、そんなことない、けど……」
「……じゃあさっさと入れ、扉、開きっぱなしで話してたらうるさいだろ」
腕を引かれるまま部屋に戻る。
呆然とするドランクを置いて何の躊躇いもなく、寝台に上がったスツルムが隣を叩く。柔らかそうな敷布がいまは全く心地良さそうではない。
これは本当に、わかっていない気がした。あまりに無防備だった。ドランクの前で彼女の警戒は緩む。たまにうたた寝だってしているし、風呂上りの姿は目のやり場に困る。今まで積み上げてきた信頼の証。光栄だ。知っているけれどこんな時まで発揮しなくてもいいだろう。
だが眠れないといった手前、彼女の好意を無碍にするわけにもいかず恐る恐る寝台に上がる。敷布に向き合っているだけでいやに心音が速くなる。昨夜は、酒場で隣になった女の子を誘った。どんな顔をしていたか忘れたけれど敷布に沈めたときも心臓はいつも通りの鼓動を刻んでいて、確かに気持ちよかったけれど誂えた表情は一分の隙もなく崩れたりしなかった。
なのに今は別人になった気分だった。何も表情が作れない。
尊敬だとか、羨望だとか崇拝じみた感情だけならドランクは彼女にとって安全な男だった。だが至極単純に目前の女の子を誰よりも可愛いと思ってしまっている。ずっと前から。
つい伸ばした腕を脳が途中で静止をかけたせいで無様に空に浮く。不審な瞳が過ぎて唇が滑った。
「……その、抱きしめても、いい?」
「好きにしろ」
断られるつもりだったのにあまりに簡単に肯定されてドランクの方が慄いた。
そんなこと言わないで欲しい。勘違いしたくなる。
だが赦しが出たからには、欲が出てしまって先ほどまで所在なさげであった腕で温かな体を囲う。鼻腔をくすぐる匂いに眩暈がした。なんの変哲もない宿の同じ石鹸を使っているはずだ。なのにやけに甘いように感じて、柔く唇を食んだ。理性の削れる音がする。悪夢とは別の意味で眠れわけがない。
そのまま寝台に横たわると彼女の体はすこし強張ったように思えた。手なんて当然、出す気はない。出せるわけがない。
だけど頭を撫でるくらいはゆるされるだろうか。つむじを目に掌を置いて指で髪をすく。
「……おやすみ、スツルム殿」
感情を殺して、絞り出したというのにふと上がった双眸がドランクを怪訝に見る。
「しないのか」
聞き間違いだろうか。返ってくるはずのおやすみ、の四文字からはほど遠かった気がした。幻聴だったのかもしれない。しかし何とか納得させようとした微かな期待を彼女は容易に破壊する。
「いつも寝てるんだろ」
女と。声色に棘を感じた。ドランクを真っ向から突き刺す赤い色をしている瞳が氷みたいだった。そんな風に見られてもどきりとするわけでドランクは重症だった。あまり見られない敵を射抜く眼差しが向けられているようで貴重な一瞬を噛み締める。
「隣で寝る、だけなわけないだろ、おまえが」
吐き捨てるように言われる。ドランクのことを心底嫌いだと錯覚するくらい、低い音だ。なのに誘われている。しないのか。反芻して手が出かけた。
誤魔化すように口元を緩ませる。自分も彼女も。
「いきなり、どうしちゃったの、好奇心? もお、からかわないでよ〜そういうのはちゃんと好きな人としなくちゃダメだよ、スツルム殿〜」
「おまえに言われたく無い。だいたいその顔、気持ち悪いからやめろ」
「気持ち悪いなんてひどいよぉ〜いつもこんな顔じゃない」
鼻で笑われた。お見通しのようだ。作り笑いは上手なつもりなのだが。
「……おまえ、わからないのか」
呆れたように嘆息された。
何が、わからないのだろうか。
スツルムのことをよくわかっているのはドランクでけれどドランクのこともよくわかっているのはスツルムだ。あれ、と思った。
ただの相棒でしかなくても嫉妬して嫌がって引き止めて欲しかった。抱くなら本当に好きな女の子、スツルムがいい。今すぐ寝台に押し付けてその唇に肌に触れたい。
怒っているようにしか見えないスツルムはぜんぶぜんぶ気づいているのではないだろうか。
ドランクだってすこし考えればわかってしまう。スツルムが怒っているのはそんな態度のくせに他の女にうつつを抜かしているからで、それなら自分をさっさと選べとドランクに突きつけているのだ。
顔が熱い。動悸がした。耳までにも響く大きな音だ。胸元に抱きこんでいる彼女にも聞こえているかもしれない。彼女は囁く。
「きづくのがおそい」
小さな声。エルーンの良い耳には充分な音量だった。
ごめんね、と謝った。彼女の耳も薄ら赤い。
「……おまえがどこで誰と何をしようが昔はどうでもよかった」
とどめのように零された言葉があまりにドランクの柔い部分を抉るものだから、これ以上、奪われないようにその唇を自身のもので塞いだ。
瞼を差す光に瞳を開ける。とてもすっきりと目覚めた朝だった。悪夢も見ない。それどころか口実にできるのに、なんて思っている。現金なものだ。だってスツルムの体を抱きこんでいるとその温もりと柔らかさと彼女のことで頭がいっぱいになる。今なら何をあんなことでと思えた。たとえまた捕まりそうになってもスツルムがすくいあげてくれる気がする。
じっと彼女の顔を眺める。髪をかき分け広いおでこに唇を寄せた。いつもスツルムの方が早く目が覚めるのに随分、疲弊させたのか、彼女の起床時間はとっくに過ぎ去っている。
けれど起こしたら腕の中からスツルムは逃げ出してしまいそうで、もうすこし、この幸福感に浸っていたい。だけどその瞳にも映りたい。
口づけを瞼に落とす。少しだけ体が身じろく。しかし、眉を顰めただけで彼女は寝入ったままだ。
楽しくなってきた。どこまですればスツルムは起きるだろうか。唇を重ねる。薄ら開いた生温い咥内が心地良さそうで舌を入れたくなった。我慢する。まだ起きない。首筋。鎖骨。胸元。腰。それから。
長い耳に鋭い痛みが走る。小さな指が食い込んでいた。
釣りあがった瞳でドランクを睨め付けるスツルムと視線が絡んだのが嬉しくて愛しくて、すっかり伝え忘れていた大事な二文字を気づけば唇に乗せていた。
ドランクを非難していた声を失くして赤い頬がさらに色づいていくのがとても綺麗だと思った。
2021年4月1日