チョコレートラブロマンス

チョコレートラブロマンス

 

バレンタインの話、ふたつ


そのいち


いつも以上の街の賑わいにスツルムは眉を潜める。まるで祭りのような雰囲気にそういえば先ほどまで隣にいた男が数日前からバレンタインだと声高に喚いていたことを思い出す。今から依頼を受ける街は行事が盛んでバレンタインも派手な催し物になるとも聞かされていた。
 スツルムから渡されるのを期待してか、散々チョコレートの話をしていたから明らかに確信犯だ。わざわざ依頼を受けてまでこの街に来たのだろう。たったひとつのチョコレート如きに毎年毎年よく飽きないものである。
 チョコレートを渡して渡されている人々が周りに溢れかえっている空気は桃色でなんだかスツルムは居心地が悪かった。
 しかし、いくら足早に進んでいても辺りには同じような光景が広がっていて、その上何故か何処の店の看板にも現実離れした煌びやかな男女が一組、描かれている。
 スツルムの日常に介入するようなものではないのだがどうも見覚えがあることに首を傾げ、ふとその二人がドランクが押し付けてきた本の表紙を飾っていたのを思い出した。最近巷で流行っている小説らしい。バレンタインに絡めた話で主人公がチョコレートの製法を武器に成り上がっていくラブロマンスだとかなんだとかドランクが事細かに説明していた気がする。そもそもスツルムにとっては読書より鍛錬でその上、興味から程遠い分野の本である。荷物の底に沈んでいるそれはスツルムがよほど暇を持て余さない限り開かれることはないだろう。
 スツルムは店から道に溢れる人混みを縫うように依頼人の元へ急いだ。
 思ったよりも依頼は難航して、随分と宿に帰るのも遅くなってしまった。スツルムの小さな体を埋めるほど賑わっていた通りにも人の気配もなく、静けさに覆われている。
もう何処も店仕舞いしてしまっているだろう。歩きながら無意識で店の灯りを探していることに舌打ちした。
「ええ! 今日一緒にお仕事出来ないの〜!なんで、どうしてぇ!?」
「今回のは別れた方が早いだろ」
「そうだけどさあ〜、あ、でも今日はバレンタインだよね! 帰ったらスツルム殿からチョコもらえるんだし、僕頑張っちゃおっかな〜」
 きっと、朝、ドランクが言っていたことを思い出したせいだ。もう貰ったつもりなのだろう、鼻歌まじりで支度するドランクは浮かれきっていた。
 だがスツルムは約束したわけでもない。毎年しつこいくらいチョコレートを催促してくるドランクを黙らせるため、律儀に渡しているのだから別に今年くらいなくてもいいだろう。歩調を早めて、ふと、一件、まだ灯りのついた店が目に飛び込んでくる。扉には開店を示す看板がかかったままだ。
 逡巡は一瞬である。夜中に煩く喚かれるのも御免だ。心中で言い訳しながら店の扉をくぐった。
「いらっしゃいませ〜」
 店員の声を耳に辺りを物色するがもう一日が終わる頃だ。すでにほとんどのものは売り切れている。三種類ほど残っている中から選んでいればふとにこやかな店員が隣に立っていた。
「お客様、恋人にですか? よかったらこれ、いかがでしょうか、人気商品なのですが予約の取り消しがありまして……」
店員の勘違いに思わず顔を顰めながらも一瞥する。
スツルムが手にしているものよりも高価そうな包みを彼女は差し出していた。
「今、人気のあの小説の中で出てきたチョコレートを再現したものでして……お客様もご存知かと思われますが有名なあのシーン――」
「……それでいい、いくらだ」
ドランクはあの小説を気に入っているようだし、とりあえず渡せるものがあれば中身なんてなんでもいいのだ。
 代金を支払って店を出る間際、恋人とお幸せになんて言われたスツルムはいつもいるはずの男を刺す代わりに自身の掌へ爪を突き立てた。

 

 


「スツルム殿、お疲れ様〜」
 宿に戻った彼女は本を片手に長椅子に座っているドランクに出迎えられる。今日、飽きるほど目にした見覚えのある表紙になんだかげんなりした。
 彼女の視線の先に気づいたのか続きだよ〜なんて要らぬ情報をくれるドランクは、今日の朝まで散々、口喧しくチョコレートを繰り返していたのに、再び視線を落として読書に戻ってしまう。一言、催促してくれればなんて思っていることに気づき、歯噛みした。手にある重みを渡してしまうのは簡単なことのはずだ。
 だが恋人、と言われたことが頭をちらついて、どうも落ち着かない。
別にそんなんじゃない。いつも渡しているから。うるさいし。
 理由をいくら並べたてても動悸がおさまらなくて、頬がじわりと熱い。戦場ですら冷静さを失うことなんてないのにこんなことで平常を装うのが難しいだなんて思わなかった。
 気の短い彼女はだんだん逡巡していることにすら苛立ってくる。
「……おい」
 顔を上げたドランクにスツルムは、無言で紙袋を突き出す。虚をつかれたようにその袋と怒っているかのようにまなじりを釣り上げた彼女を見つめるドランクは数度、瞳を瞬いて、破顔した。
「えぇ〜これって人気のお店のチョコだよね〜わざわざ予約してくれてたんだあ、嬉しい……」
 運良く手に入っただけだが、耳をばたつかせてまで浮かれている男にわざわざ水を差すこともないだろう。
 よほど嬉しいのか、頬を上気させて喜ぶドランクをなんだか真っ向から見るのが耐え難く、顔を背ける口実に荷物を置いておもむろに防具を外していく。
身軽になったスツルムはちらりとドランクを一瞥した。包みからチョコレートを取り出す男はそれを持ったまま何故か固まっている。
「……え、す、スツルム殿、これ……」
「おまえが読んでた本に出てくるんだろ」
「……ぁ、し、知ってるんだ……そ、そうだよね……僕、本、貸したんだし……」
そのまま俯いてしまったドランクの頬が先ほどよりずっと赤かった。
チョコレートを渡した後、いつも大袈裟なほどその喜びを語り出すのだがドランクは珍しく口を閉ざしてしまう。怪訝に思いながらもスツルムはさいわいとばかりに浴室へ向かった。

 

 

 

 

 風呂から上がったスツルムが部屋に戻るとドランクがぼんやりと寝台の縁に座っていた。読んでいた本も傍によけられたまま開かれていない。
 彼女が近づけば、弾かれたように面を上げて、けれど、視線はうろうろと定まらない。相変わらず顔が朱に彩られていて、眉根を寄せる。
「おまえ、熱でもあるんじゃないか」
 昔、弟たちににしていたように思わず額を寄せたが、その距離の近さに触れる寸前で躊躇う。
 ドランクも驚いたのだろうか。金色の瞳は大きく広げられ、途端、気まずさを覚えたスツルムは体を引こうとして瞬間、唇へあたる感触に息が止まった。口づけられたのだと遅れて認識した時、その体躯はすで寝台に沈み、いつもの軽薄さなんて微塵も感じさせないひどく真剣な顔をしたドランクが彼女を見下ろしていた。
「……スツルム殿、ほんとに、いいの?」
一文字ずつ確認するようにゆっくりと発された言葉を彼女は意味を解せずただ聞いていた。
 何が。いいんだ。
呆気にとられていれば頬を長い指がすぎ、耳飾りを鳴らして、髪をすくう。その手だけではなく、突き刺さる眼差しが熱い、と思った。
スツルム殿、とその唇が模る。名を呼ぶ声がやけに甘ったるい。向けられている感情を薄ら察していて知らぬわけではないけれど今までこれほどはっきりと彼女には見せなかったはずのものだ。
 再び顔が近づく。頬によりそう掌。ようやく状況を呑み込んだスツルムは、全身が沸騰するかの感覚に襲われる。
「……っ、な、おまえ、何考えてるんだ! ふざけるな!」
羞恥に思わず振るった手が頬を張った。乾いた音が空気を裂く。
 義理で、世話になったから。渡す時、誰にもそう口にするけど、ドランクには言わない。言いたくない。それを察しているのかいないのかだけど今までこんな空気になったことは一度もなかった。
 言葉が詰まって、ただ睨むスツルムとは違い、緩慢な動作で身を起こすドランクは、先ほどの表情をすっかり消して場違いに口元を緩める。笑んだ顔は軽薄さすら思わせたが、どうしてか作りものみたいに思える。
「もお、そんなに強く叩かなくてもいいじゃない、スツルム殿ったら……」
痛いなあなんてこぼしながら頬を撫でるドランクはいつものような振る舞いで緊迫が解けたように錯覚する。
「…………あー、もしかしてスツルム殿、このチョコ渡す意味、しらないの……?」
「は?! 意味ってそんなの、……」
好きな相手だとか、恋人に渡す。認めたくないだけで自覚はあるが故にはっきりと口にするには躊躇われた。
「……別にそんなの、な、なんでもいいだろ、おまえが欲しがるから適当に買ってきただけだ……!」
「……じゃあ、やっぱりスツルム殿が選んだわけじゃないんだね、店員さんに勧められた、とか……」
「……あ、当たり前だ、なんでおまえのためにわざわざ……」
脱力したようにドランクは肩を落とす。
「…………スツルム殿がくれたチョコなんだけどぉ、ほらこないだ話した小説で出てくるんだよね……その場面が有名でわざわざおんなじチョコ作って真似する女の子たちが増えたからたぶん、お店でも作って売り出してるんだけど……」
ドランクの視線が落ち着かないように惑う。苦笑に変わった唇がゆっくり開かれた。
「…………これ渡すのは夜部屋にきませんか?って意味になるの。だから……、僕、スツルム殿にもらって…………」
ドランクが薄ら目元を染める。
幼い子どもでもないのだ。婉曲なその言葉が何を示すか鈍いスツルムでもわかる。それをドランクへ向けてしまった事実に頬が焼けそうなほど熱い。
「……っちが、そんなつもり、……あ、あるわけないだろ……! おまえとそんなの……!」
ただ己の羞恥を振り払いたくて吠えた言葉をすぐに後悔する。ドランクの、笑っていたはずの細めた瞳が傷ついたように歪んだ気がした。
「……ごめんごめん、勘違いしちゃって……スツルム殿、どうせ店員さんの話聞かなかったんでしょ〜もお、せっかちなんだから〜」
ほんとに、ごめんね。
模った表情が無理したように誂えたんだとわかるくらいにドランクにしては下手な誤魔化しだった。
彼女が言葉を探している間も取り繕うように無意味な話をドランクは垂れ流している。すごい完成度だよね。小説の挿絵のとそっくり。
「じゃあ僕、ちょっとお水もらってくるからスツルム殿は先に寝てていいよ」
そう言うドランクが今日は帰ってこないつもりであるのは明白だった。不自然に飾った笑みのまま寝台からドランクは足を下ろす。
そんな顔をさせてまで強情である意味なんてないのに、喉元が締め付けられたように声が出ない。
 背を向けたドランクの腕を引く。振り返る顔には赤い手形が残っている。半身を上げた。そこに唇を触れさせたのは一瞬だった。だが、その感触は届いたのだろう。金色の瞳が大きく開かれる。
「……っ、た、叩いて悪かった」
種族なんて気にしたことはなかったのに、この時だけはこの男がエルーンで良かったと思った。自身でも腹立たしいほどに小さくなる声を聞き入れてくれるのだから。
「…………おまえは、ずっと勘違いしてればいい」
もっと素直に言えればいいのに、またそんなふうに口にしてしまって、だけど、ドランクが綻んだように笑うからあてられたようにスツルムは再び何も言えなくなってしまった。

 

 

 

 

そのに


 失敗した。大々的な行事の日だからか、華やかな街並みと浮き足立つ人々とは対照的に仕事終わりのドランクは肩を落として歩いていた。普段なら彼女とは別行動の仕事が早く終わって機嫌よく帰路についているはずだった。
 今日はバレンタインである。だがドランクは一つとして貰っていなかった。否、一つでいい。
毎年くれるスツルムから貰えさえすればそれで充分なはずだった。
 バレンタインの数日前からチョコレート、と喚いているのを鬱陶しそうにしながらもなんだかんだで朝一番にスツルムはドランクにくれる。それを馬鹿みたいに喜んで刺されるまでがドランクにとってのバレンタインである。
 しかし今日の朝、彼女からチョコレートを渡されることはなかった。もたもたとわざとらしく朝の準備を遅らせてみてもなかった。ただ彼女の機嫌を悪くした。刺され損である。理由はわかっている。いつもみたいに催促しなかったからだ。もう何年もくれているわけだ、お願いしなくてもくれるんじゃないか、ふとそんな期待をしてしまって口を噤んだせいである。愚かな考えを抱いたすこし前の自分を殴って目を覚ましたい。ドランクが煩いからという理由でも貰える方がいいに決まっているではないか。むしろドランクが催促するから渋々毎年渡しているという事実が浮き彫りになっただけで何もいいことなんてなかった。ドランクが言われなければスツルムはくれない。そんなこと知りたくなかったのに。
 周りの明るい面々とは似つかわしくもない深々としたため息が散った。宿に戻ったらスツルムがチョコレートをくれる。気晴らしにとても心の温まる想像を浮かべてやめた。それで結局、妄想だけに終われば余計に気分が沈むだろう。
 重い足取りで宿への帰路を歩んでいれば、ふとよく見る背中が通りがかった店に消えて行くのを目にした。間違えるわけがない。揃いのマントで今までずっとドランクの頭をいっぱいにしていた相手なのだから。
 脚を止めて見た看板はドランクもよく知る店だった。有名なお菓子屋さんだ。去年、団長の妹へのお返しを選びにスツルムと来た覚えがある。もちろんバレンタインの今日、チョコレートも販売しているだろう。そこにスツルムが入っていった。途端、忙しく回転する脳が一足先に喜びだす。次いで普段抑え込んでいる耳が感情に流されて揺れた。きっとスツルムは当日まで忘れていただけなのだ。宿に帰れば貰えるかもしれないなんて悲しい想像だったはずが現実味を帯びてきて、頬が紅潮する。ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。もしドランクの姿を見たら彼女は、照れてしまって貰えるものも貰えなくなってしまう。
 先ほどとは違い軽い歩みでドランクは石畳を踏みしめた。

 

 

 

 

 部屋に戻ったドランクはどうも落ち着かないまま長椅子に座っていた。ぱらぱらとめくっていた雑誌も頭に入らない。 
 毎年毎年ドランクが煩く喚いているからくれるんじゃなかった。嬉しい。今か今かと彼女の帰りを待ち侘びていたら外に人の気配を感じた。
 扉を開く音に視線を上げて破顔する。
「おかえり〜スツルム殿〜」
手には店の紙袋。いつも以上に緩んだままの口元にスツルムは冷たく一瞥だけして、ドランクの名前を呼んだ。期待に胸が高鳴る。
しかし、次いでスツルムの唇からドランクの想像した言葉は出てこなかった。
「おい、さっさと準備しろ、今から仕事が入った、出るぞ」
「えぇ〜今日は朝のだけじゃないの〜!?」
「あいつらには世話になったから仕方ないだろ」
その口ぶりからするといつもの騎空団からのようだ。ちょうどこの島にいて、偶然会ったスツルムは仕事を頼まれたらしい。
 手速く身支度を整えて、待ち合わせている場所に向かう。停泊している騎空挺に乗り込めば、申し訳なさそうな顔と対面した。
「すみません、急な依頼なのに受けてもらって……」
「構わない、どうせ昼からは空いていた」
「ありがとうございます。今ちょっと人手が足りなくて、困ってたんですよ、スツルムさんとドランクさんが来てくれて本当助かります」
「それにちょうどよかった。渡すものがある」
スツルムが彼に差し出したのは先ほど見た紙袋だった。
「いいんですか……!」
「……いつも世話になってるからな」
 なんだ。違ったんだ。立っている場所が途端、不安定になったように錯覚した。期待していた分、落胆が大きくて手渡されていくそれを未練がましく見つめる。羨ましい。どうして。
 彼女は義理堅いから口にした以上の特別な意味なんてないのをわかっているけれど黒々とした澱みが胸を浸す。
誤魔化すために笑みを模って、呑み込んだ醜い感情を一片だって気付かれないようにいつもみたいに軽く言葉を紡いだ。
「えぇ〜いいなあ、チョコレート、僕も欲しいなぁ〜せっかくのバレンタインだってのに僕、一つも貰ってないんだ〜」
 今更、スツルムに欲しいと強請ったって困らせるだけでどうしようもないから、ただ貰えないことだけを主張するようにそう口にしてふと彼女の唇が何か言いたげに動いた気がした。
「あ、スツルムにドランク、久しぶり〜今日はお仕事?」
しかし、明るい声色に視線がとられる。いつもと違い見慣れないエプロン姿の少女は団長の妹だろう。
「久しぶり〜うん、お仕事だよ、あれえ、妹さん、どうしたの、その格好、ひらひらしてて可愛いね」
「そうそう、今、チョコレート作ってたの〜ちょっと待っててね」
部屋に引っ込んだ彼女は綺麗に包まれた箱を手に戻ってくる。
「はい、これドランクの分」
「え、僕に? ありがとう〜また来月お返し用意しておくね〜」
「やったあ、いいもの期待してるね〜!」
ひらひらと手を振った彼女は踵を返して部屋に消えた。横を見るといつもと変わらない赤いつむじがあるだけだ。
「ね、スツルム殿、何か言いかけてなかった?」
「……別に。何もない、気のせいだろ」

 

 

 

 

 依頼はこの島の周りの空域に出た魔物退治だった。ここのところ一気に増えたらしい。騎空挺に乗ったまま島の近くを徘徊して対処していく。思ったより数は多く、終わる頃には日はすっかり姿を消して、月がその光を強く主張しはじめていた。
 一応、明日も確認のため周辺を巡回するようで、スツルムたちももう一日付き合うことになった。大広間で用意された食事を終えて借りた一室に戻る。思っていたより時間が過ぎていたようで短針がすでに十一を指していた。
「スツルム殿〜、お風呂先に入る?」
「……別にいい、おまえ先にいけ」
「え、いいの〜? 僕、長いのに」
知ってる。だから都合がいいのだ。
「……わかってるならさっさとはいれ。余計遅くなるだろ」
間延びした返事をして風呂場に消えていく後ろ姿を見送ったスツルムは、荷物を手元に引き寄せる。
中から取り出した青いリボンで飾られた小さな箱を手に蓋を開けた。四角く均一に並んだチョコレートを前に舌打ちする。
 こんなもの買うんじゃなかった。
今年はどうしてかドランクは欲しいとも言っていなかったのに気の迷いなんて起こしたから持て余す羽目になった。貰えれば誰でもいいならスツルムが渡す必要なんてもうない。
 あの後も食堂で何人かにチョコレートを渡されていた。欲しいと言っていたからあれだけ貰えれば満足しただろう。
 貰っていた時のドランクの嬉しそうな顔を思い出して、箱がすこし歪んだ。あれをいつも向けられていたのは。
馬鹿馬鹿しい。考えるのをやめる。食べたくもないチョコレートを口に入れた。捨てるのは勿体ない。
美味しいのだろうか。ただ甘いだけの気がする。
あと三つもあるがこのくらいなら食べ切れるだろう。
もう一つを口に含んで、足音に飛び上がりそうになった。
今日に限って早すぎる。心中でドランクを罵りながら、さりげなく長椅子の端に寄って、半分背中を向ける。
「スツルム殿、上がったよ〜どう、僕、早かったでしょ〜ね、ね!」
そう言ってドランクは案の定、スツルムの隣に座るものだからひやりとした。
「……あ、もう、今日終わっちゃうね〜バレンタイン、僕も結構いっぱい貰えたし嬉しかったなぁ〜食べきれないかも……」
 本当に渡さなくてよかった。
三つ目は口の中で溶ける間も無く噛み砕いて飲み込む。ようやく開ける唇でああ、だとか、適当に相槌を打って最後の一つに手を伸ばす。
口先にチョコレートが触れた瞬間、違うの、とひどく弱々しい声が聞こえた。
「…………僕、チョコがいっぱい欲しいんじゃなくてホントはスツルム殿からのチョコが欲しかったの」
もう箱の中身は空だ。口元に一つ。咥えてしまったから溶け出している。迷っている間すらなかった。
「……だから、来年は――」
振り返って胸元を掴む。唇を強く重ねて舌先でチョコレートを中に押し込んだ。
 金色の瞳が眼前で大きく開かれている。思い切った事を自覚したスツルムは慌てて身を離して、元の位置に戻る。
「……ぁ、……え……」
瞼を瞬かせるドランクは、ゆっくり口内のチョコレートを噛み締めて、スツルムを見た。
「……ちょうど食べてただけだ」
「……もう、ないの?」
「……ない」
喚かれても面倒なので証拠を示すように空の箱を見せたのは失敗だった。箱を飾るその色を無意識で選んだ自身に腹が立つ。
 毎年スツルムに向けられていた笑みが咲く。ああ、そうか、全然違うのか。
 見惚れていればそのまま距離が詰まった。
「ねえ、まだあるじゃない、スツルム殿」
 ここに、と指が唇に触れた。理解するより前に再び重なった唇は彼女が押し付けた時より強引で、侵入する舌先はひとかけらでも残したくないとばかりに甘ったるい咥内を隅々まで踏み荒らしたのである。


2021年8月9日