唇に、花

唇に、花

 

ドランクの片思い……?かもしれない話


 

 好きな子の顔が眼前に迫った。数秒遅れて唇が重なる。柔らかな感触。

しかし再び目蓋を開かして視界にあるのはなんの変哲もない宿の天井である。しあわせな夢だったようだ。目が覚めたドランクは、今しがた見た夢を噛み締めて想う。時折、こういった願望じみた夢を見てしまうが、ただの相棒としか思われていないのは重々承知しているし、好きな女の子と一緒にいられるだけでも大変満足しているドランクは現状から動く気は全くなかった。あわよくばという気持ちがないわけではないが、損ねられる信頼と天秤をかけて圧倒的にこの状態に傾く。何となく一番大事にされている気はするので、充分なのだ。日々変わらず、軽口を叩いて刺されてとっても幸せである。

 どうやら読書途中に長椅子で寝入ってしまったらしく、傍に本が落ちている。風呂上がりのスツルムは寝台に腰掛けて髪を拭いていた。
すこし部屋が暑いのかもしれない。額を伝う一筋の滴を手で払って起き上がる。スツルムの隣に座って、何気なく眺めていれば訝しむように細められた瞳がこちらを向いた。
「なんだ、ドランク」
「別に〜何でもないよぉ〜」
その赤い双眸に映るだけでもドランクは嬉しいのである。なので特に意味もなく名前を呼んだりする。もちろん、用もなく呼ぶので刺されるが。今日は、剣がないので代わりに冷たい視線が突き刺さる。
「何もないならじっと見るな。鬱陶しい」
「ひど〜い、見るくらいいいでしょ〜スツルム殿ったら冷たいんだから…あれ、髪拭くの終わり? 化粧水とかは?唇もかさかさだよスツルム殿!」
「必要ない」
「えぇ〜スツルム殿、肌綺麗なんだから、ちゃんと手入れした方がいいよぉ〜あ、ちょっと待ってて」
 鞄を探って見つける。よろず屋から買い物のおまけとして貰ったがドランクにはさすがに用はない。
花の香りの香油はきっと唇の保湿にも使えるだろう。可愛らしい薄紫の小瓶を手に戻ったドランクはスツルムの唇に勝手に塗り始めて睨まれる。彼女からふわりと漂う香りはすこし甘い。
「おい、なんだこれ」
「お花の香油だよ、いい香りでしょ〜よろず屋さんにもらったの。僕が使うより絶対スツルム殿が使った方がいいと思うからあげるね〜」
無理矢理手の中に収めてしまえばスツルムが捨てることはないだろう。渋い顔で受け取った彼女は、小瓶を片手に唇が気になるのか指で触っている。
「あんまりなめたり触ったりしたら取れちゃうからつけたらちょっと放っておいた方がいいよ〜」
「……わかった」
指先から香る匂いは同じで一日でも増えたお揃いにドランクは小さく耳を揺らした。

 

 次の日もドランクは長椅子で居眠りしていた。昨日とは違う天井だが宿であることは変わりない。
 また本が傍に落ちている。せっかく買ったので我慢して読んでいたが、途中、何度も寝てしまうくらいつまらないようだ。
 スツルムの風呂を待つ暇つぶしなので随分、短い時間で眠ってしまったらしい。明日売りにいこうかなあ、だなんて思いながら風呂上がりの彼女に近づいて香る優しい花の匂いに口元を緩めた。
「スツルム殿、使ってくれてるんだ、嬉しいなあ〜」
「……使わないと勿体ないだろう」
髪の毛を拭く手を止め、背けられる顔はほんのり赤い。可愛い。ずっと見ていたいけれどあんまり凝視していると機嫌を損ねてしまうのは明白なので何処か浮き足立ちなままドランクは浴室に向かう。
 花、の香りがした。
洗面所の中は至って普通でスツルムは湯に花を浮かべる趣味もなく、覗き込んだ先には、当然、透明な浴槽が見える。
聴覚は断然いいが嗅覚は人並みである。さすがに扉を閉めた先から香るはずもなく、首を傾げ不意に気付く。
 花の香りはドランクからした。ドランクの、唇からしていた。指で触れて、ぬるりとした感覚に双眸を瞬かせる。乾いていない。きっとほんの数分前だ。それに気づいてしまえばお揃いを喜んでいる比ではなかった。
 唇に触れたまま熱い顔を上げた先にはどうしてだかスツルムがいて、ぼんやりと突っ立っているドランクを怪訝そうに眺めていた。
「……服を置き忘れたんだがお前、どうしたんだ?」
 いつもよりすこし艶やかな唇にいやでも目が惹かれた。スツルムが遅れて、視線の先に気づき、釣られたように触れる。目を大きく見開いて、鮮やかに赤へ染まっていく頰が綺麗だった。口を開閉して、言葉にならずただ浅い呼吸を繰り返す彼女は、目的を忘れて飛び出していってしまう。
 当然、ドランクも追いすがる。掴んだ手。は熱い。俯いて揺れた髪がまだかすかに濡れている。滴は服を濡らしていて、見覚えのあるそれに今更に気づいてしまった。
 現状に満足していたけれど彼女がそうだとは限らなくて、ドランクもあんな顔を見てしまっては、迅速に考えを改めてなければならなくなったのである。


2020年5月9日